適当です

適当です

社会通念などというものもこの時代たまたまそういうものがそうとされているというだけで普遍ではないし、その外の社会の人から見れば全く意味を成さないものであるし、社会の中にいても通念の網の目が見えない人には全く意味のわからないものであって、後者は特に自分で自分を完全に社会から切り離すか、そういうものなので仕方がないと割り切らないとこうなるのだなと思う。

通念に浸りきって、よりよく生きることはよりよいと信じきってみると生活が捗るのだろうなというのはなんとなくわかる。

別にこれをしなくても生きていけるのにな、とか、そもそも生きていく必要などもないのだよな、とかいうそのもう一段下でつまずいているのだが。

 

おこしです

家で過ごす時間の大半は何もせずにぼーっとしている。

 

実際にはtwitterを眺めたりしているが、特に何も考えていないし、何も残らないのでそんなに変わらない気がする。

気がつくと1時間とか2時間とか、半日とか1日とか、1週間とか2週間とか、3ヶ月とか半年とかが経っている。

前は毎日世界のこととかを考えていたので多少は頭を使っていた感じがするけど、全てはなるようになってしまうし、なるようにしかならないし、どこまでもどうしようもないのでなんとなくやっていくしかないというところに至り、以来完全にストップした。

時間の感覚が面白いことになってきたのはそのあたりだと思う。

時間の流れるのを早いだとか遅いだとか、じっとしていることを退屈だとか苦痛だとか感じる部位が機能しなくなっている気がする。

 

高校3年の夏休み、ノリで1度だけ近所のお寺に友達と坐禅をしに行った。まだ空気の青い5時ぐらいに門を叩いて、30分ぐらいレクチャーを受けて、真暗なお堂で45分の間、ただ頭の中で1から10を繰り返し数えるのに合わせて深ぁく呼吸をする。坐禅と言われると思い浮かぶ肩をパァンと叩かれるアレは無かった。そういうアレだったっぽい。

たまに自分のお腹の鳴る音と、友達のお腹の鳴る音と、お坊さんのお腹の鳴る音と、常連ぽい近所のおじさんのお腹の鳴る音がお堂に響く。あと外の滝の音もしたかもしれない。そういう雑音もより深く集中するために利用するのだとお坊さんが言っていたかもしれない。

はじめはちょっと長いんじゃないかとも思ったが、何もしなくていいことが約束された時間だと思うと気持ちよかった。取り組む姿勢としては正しくないだろうが、まあどうでもいいだろう。

また行こうねと言ったけど2度と行かなかった。別に行ってもよかったのだけれど複合的面倒臭さがある。

 

何もしなくていいことが約束された時間だけ欲しい。

何もしたくない。

ずっと高速バスとか乗ってたい。

ずっと高速バスとか乗ってたらそれはそれでまた文句言い出すんだろうけど。

 

 

正しいとか正しくないとか良いとか悪いとかそういうのがぜんぶわからなくなってしまった

前はわかったのかと言われるとそういう訳でもないのだけれど学校みたいななんというか塀に囲われて大人に囲まれてここに入りたいんですきまりは守ります入れてくださいと言っていいですよと言われて入った場所ならきまりを守ったらいいし大人の言うことをきいたらいいし勉強を頑張って志した進路を実現したらいいしそれらはきっとそこでは絶対に正しいけど当たり前だけどそれはそこでだけの話でいつもそのことだけ考えてそこでの当たり前のことを当たり前にしてくれない級友に阿呆みたいにいらいらしてたの別に自我があったわけじゃなくてむしろあまりにも無だったので確からしい型に縋ってるしかなかったからだなということがようやくわかってきた
あ、お勉強はしてないです。

型が見えなくなって本当になにもわからなくなっていますがなんでもいいんだろうなとも思います

なにもしたくない

腹が痛い

多分半年以上毎日欠かさず死ぬことを考えています

まだ人のかたちを保っているし全然大丈夫ではないか

なっています

ぜんぶ嫌になって

一度死んだ気になったら何でもできるのでは??

なったこともありました

何でもできたら真っ先に死んでいるでしょうしそういうことかな

いうことです